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__ | ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ | ▲top page Nr.005 笹無山 天城(あまき)街道を倉敷市中心部から南下すると、藤戸に至る手前の左側にこんもりと小さな丘がある。「笹無山」(ささなしやま)というバス停があるが、ちょっと入った場所なので、注意していないと通り過ぎてしまうかも知れない。 遙か昔、ここで壮絶な“源平藤戸の合戦”が展開されたというのだが、なぜかピンとこない。余りに日常的な風景が広がっているからだろうか。40キロ制限の追越禁止の地方道、両側には住宅そして店舗。少し離れて倉敷川が並行に流れる。水田を渡る風は、戦争という恐ろしいトゲを、時の流れと共に少しずつ風化させてしまったのだろうか。 さて、今回のお話を始めるには、源平藤戸の合戦の経緯を少しだけ説明させていただく必要がある。「笹無山」の名の由来を知るには、不可欠だからである。 この藤戸周辺が陸地になったのは江戸時代。だから源平の戦った平安時代終わりは、海の下だった。現在の種松山や福南山は瀬戸内に浮かぶ島であり、平家側はそこに陣を築き、20艘余りの船を操って戦った。四国の果てに追い落とされてはならじ…と、この一戦に本州反撃の足がかりを求めたのである。 対する源氏は数千もの兵力、しかし船を持たない。いや船があったとしても源氏は山育ちばかり、操船などできはしない。平家側も、余りの兵力差に攻めあぐねていた。藤戸海峡を挟んで虚しくにらみ合い、時だけが流れていく…。 膠着状態を歯ぎしりし、せめて一騎なりとも向こうに渡る事ができれば…と悔しがるのは、源氏の武将、佐々木盛綱であった。先の戦いで彼の弟が先陣を飾っており、今回こそは一番槍!と胸に秘するものがあった。 そんなジレンマを抱えたある日、盛綱が海岸を歩く若い漁師を見つけた時から、悲劇が始まる。藤戸周辺は平家の勢力圏で、地元の人は平氏に心を寄せていた。そこでまずは白鞘の刀を与えて、向こうの島へ渡る瀬はないかと尋ねる。見たこともない立派な刀を手にした重さにこの若者は喜び、半月ごとに変動する浅瀬を教える。 さらに詳しく聞く盛綱に、浅瀬の見分け方だけでなく、一箇所だけ深く危険な場所があることを教える。最高の情報を得て喜び、直垂(ヒタタレ)を褒美に出す盛綱に、若い漁師は竹を切って立て、目印になるようにした。海面からは見えない浅瀬をつなぐと、なんと仇敵・平家の陣営まで行けることが確信できた。 その一瞬、盛綱の心に冷酷な決断がよぎった。大事の前の小事、この漁師の口から作戦が露呈しては…と、“浮州岩”の近くで一刀のもとにこの漁師を切り捨ててしまう。嗚呼! 無惨。 次の引き潮である翌朝8時頃、盛綱は馬を海へと乗り入れる。この場所が“乗り出し岩”である。そして部下を率いて平家陣営に攻め入り、大功を挙げる。安全…と思い込んでいた平家側は、虚を衝かれ惨敗。最終的に滅亡したと言われている壇ノ浦へと逃げていくのである。 そんな事を知らない、若い漁師の母親は、いつまでも帰らない息子を待っている。が、佐々木盛綱に殺された事を知ると、涙を枯らして叫んだ。 「佐々木憎けりゃ笹まで憎い!」 むしり取った笹を握ったまま狂い死んだのだ。その怨念が、この丘にシミ込み、以来、笹が生えなくなった、と伝えられている。 現在、その母の心も虚しく笹が生えている。が、遥か昔に、こんな悲しい思い、そして悲惨な出来事があった事を、戦争と無縁になった今、我々は忘れてはならないと思う。 水田の上を渡る風を頬に感じられる事こそが、もしかしたら世界最高の、いや歴史上最高の平和の象徴なのかも知れないから。 by アルケミー・えんしゅう |
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